橋本努
オーストリア学派経済学の学術組織は、現在、アメリカの南東部にその拠点をおいている。「オーストリア学派経済学南部部会」(Southern Department of Austrian Economics、略して “SDAE” )という組織がそれである。アメリカ滞在中に私は、この団体の2001年の年次大会に出席してみた。フロリダのリゾート都市タンパにあるマリオット・ホテルにて開催されたこの大会は、三日間にわたる凝縮されたプログラムを用意しており、私はたんに出席・聴講したにすぎないが、それでも多くの刺激を受けた。以下に思うところを記しておきたい。
オーストリア学派の年次大会は、アメリカの「南部経済学学会」(Southern Assosiation of Economics)の大会の一部として開かれる。南部経済学学会とは、いくつかの小部会の集合体から成り立つ上位組織の団体であり、この中には例えば、「韓国経済部会」という韓国系アメリカ人の研究コミュニティもある。オーストリア学派の大会は、この大きな大会の中でいわば「出店」を開いているわけだ。
今年の大会は、11月17日土曜日の朝8:00から始まり、11月19日月曜日の昼すぎに終了した。一回のセッションあたり一時間半、平均して三人の発表があり、一つの時間帯に約20セッションが開かれる。またそれぞれの部屋では、三日間で合計8回のセッションが開かれることになる。この他にも合同部会の時間帯があり、記念講演や総会などが開かれていた。その中には例えば、ノーベル賞受賞経済学者ナッシュの講演もあった。
オーストリア学派の部会は、意外なことに他の部会よりも相対的に人気があった。オーストリア学派はなるほど、新古典派に比べればマイナーな研究分野である。しかし新古典派経済学はそれぞれの専門ごとに部会が分かれているので、一つ一つのセッションはとても小さい。これに対してオーストリア学派は、いくつかの分野を結合した一つの小体系をもっており、このことが組織化された部会運営につながっているのであった。他の部会が発表者をそろえられていない(つまりセッションの数が少ない)ことを考えれば、オーストリア学派はすべての時間帯を利用して、めいっぱいの発表と討議を行っていた。
ところでこの部会は、今年で6年目を迎える。組織は年々拡大しているようで、メンバーは現在100人を超え、このうち大会への出席者は40-50人程度であった。組織論上興味深いことに、オーストリア学派南部部会のメンバーは、「南部経済学学会」という上位組織のメンバーシップに加入していない。つまりこの部会は、自律して年会費を集め、南部経済学学会に対しては金銭的に独立している。したがってオーストリア学派のメンバーたちは、大会においては「非会員」として、少し高めの大会費(一ヶ月前に申し込めば$100 、当日申し込めば$110。ただし夫妻で出席する場合は一人分の大会費でよい)を払っている。毎年開かれるオーストリア学派の大会に、メンバーたちが非会員費を支払って出席するというのは、何とも奇妙である。しかし大会の一部としてオーストリア学派部会を開催することにはメリットがある。すなわち大会では、セッションやラウンジでの会話のチャンスがあり、また部会ではオーストリア学派以外の研究者たちとの交流を期待することができる。つまりオーストリア学派は、新たな交流のための「窓」を用意しているわけだ。これは組織運営上、とても有意義なことであるように感じた。また大会は、大学のキャンパスではなくてホテル内で開かれるので、朝早くから夜遅くまで、人々の交流を期待することができる。これは確かに、時間と体力のロスが少なく、理想的な社交の空間であるといえよう。
もっとも、大会の運営に問題がないわけではない。まず、セッションの数があまりにも多すぎて――それぞれの時間帯に約20部会が開かれる――、どの部会も平均すると10人以下の人数で開催されている。ひどいセッションになると、司会と発表者とコメンテイターだけの計6人で議論しているといった具合である。あまりにも部会が分化されすぎていて、またあまりにも発表者が多すぎて、聴講する人がいない。発表者たちは、別の部会にはあまり出席していないようだ。フロリダというリゾート地であるせいか、出席者たちは多くの時間をバケーションに費やしていたのかもしれない。結果としてどの部会も、あまり聴衆がいないという寂しい結果になっていた。また夜は夜で、いくつかの部会が私的にパーティを開いてはいるが、大会全体としてのパーティは開催されない。例えばあるパーティは、ジョージ・メイソン大学の出身者たちに参加者を限定しており、その大学の先生と出身者たちの共同性を基礎としていた。アメリカにおいてもやはり、こうした出身大学が「学閥コミュニティ」として機能しているのであろう。これはなるほど閉鎖的な社交空間を作るものだと感じた。
ところでオーストリア学派の部会には、平均して15人くらいの聴衆がいた。しかも毎回聴衆がほとんど異なっていた。つまりオーストリア学派のメンバーたちもまた、自分が発表するとき以外はあまり出席しておらず、オーストリア学派以外の人たちが聴講していたようだ。ロジャー・コップルによれば、この大会全体がオーストリア学派によって最も支配されていたというが、あながち間違いではないかもしれない。15人くらいの聴衆がいれば、その部会は大成功なのである。(ちなみに、デビッド・ハーパーは、最初の部会で司会をつとめた後、その後はパーティ幹事の仕事のために、まったく出席していなかった。これに対してピーター・ベッキは、すべての部会に出席して精力的に発言していた。マリオ・リッツォはフロリダが嫌いなので、今年は出席していなかった。)
大会のセッションでは、時間厳守である。開始時間、発表時間、終了時間などすべてがきちんと守られて進行していく。発表者の発表時間は15-20分程度であり、発表のレジュメは、当日何も配らない。また大会全体としても、発表要旨のようなパンフレットは作っていない。したがって聴衆は、難しい議論やなじみのない議論には、聴講するインセンティヴをもちにくい。とくに私のような英語を母国語としない参加者には、レジュメがないということは大変不便であった。しかしどの部会でも、一定のパラダイム知識を共有することが前提となっているようで、大会においてコミュニケーション上の不都合はあまりないようである。
プレゼンテーションの方法としては、若い世代のあいだではすでにOHPの利用が標準化されているようであった。ただしパワーポイントを利用する人はまだ少なかった。また印象に残ったのは、どの発表に対しても、ディスカッサント(コメンテイター)がしっかり原稿を用意して、時にはデータを持ち出して、濃密に議論するということであった。ディスカッサントの周到な準備のおかげで、議論は活性化され、有意義なものになっていたように思う。事前に誰かが発表者の原稿をしっかり読んでいないと、こういう有意義な結果にはならないだろう。
また発表者たちの発表内容は、すべて一定の水準をクリアしていた。いずれにしても、ただ要約しました、紹介しました、批評しました、という類の研究はない。発表者たちはオーストリア学派の研究史に新たな内容を付け加えるために、わざとでもドラスティックにやっているようなところがある。例えば、ある研究者の議論をすべて否定するとか、ある議論に対する諸批判をすべて否定するといった具合の発表内容である。そうしないと聴衆の印象に残らないから、ということだろうか。いずれにせよ、堅実で控えめな主張というスタイルの発表は、皆無であった。発表者たちはプレゼンテーションがやたらに上手であり、過激であり情熱的であった。ただしローレンス・ホワイトやロジャー・ギャリソンのような著名な学者たちは控えめで、社交的ではないという印象を受けた。おそらく堅実な業績を上げている学者たちは、総じて社交的ではなく、プレゼンテーションの重要性を理解していないだろう。これに対して著名でない学者や若い学者ほど、プレゼンテーションが上手であるという相関関係があるようだった。
他の学者たちについて言えば、ごく普通の紳士的な白人のアメリカ人といった感じの人が多く、屈折したところを感じさせない。例えば方法論上の難しい問題を論じる際に、バスケット・ボールの比喩を使って説明するということがいくつかの発表に共通してみられたが、アメリカ人の聴衆を前に発表をするときは、こういうスポーツの例を使って、異常に分かりやすい、しかもデフォルメされた説明がなされることがあるようだ。これには率直に言って、アメリカ人の教養的背景の欠如を感じた。オーストリア学派経済学というものは、そもそもアメリカ人にとって海外からの輸入文化であり、研究者たちは、ある面では欧州の文化的資源を摂取しようとしている。しかし総じて言えば、オーストリア学派の大会では「文化的理解」よりも、今後の研究方向について議論することが多かった。研究者たちのメンタリティーは「未来志向的」であり、今後の研究パラダイムを共同して作っていくことに関心が向けられていた。なるほど健全な態度ではあるが、しかし文化的な資源の乏しさを感じたりもする。
他面では、オーストリア学派のメンバーたちは互いに顔見知りのようで、親しい社交の営みを大切にしていた。ピーター・ベッキやスティーヴン・ホーヴィッツなどの学者はとても社交的で、いろいろなアイディアに反応し、それらを統合していくことに面白みを感じているようだった。サンフォード・イケダ氏は、オーストリア学派の中では唯一のアジア系であり、精力的に活躍していた。毎回質問をしており、また、学会運営においても積極的に関わっているようだった。ただし今年は、イスラエル・カーズナーが研究生活から退き、またドン・ラヴォアは大会直前に約五〇歳で亡くなった(死因はガンであるという)。これらのことは、オーストリア学派にとって大きなロスになった、ということをメンバーたちは話していた。
アメリカにおいて今後のオーストリア学派にどれだけの可能性があるのかというと、それは未知である。オーストリア学派を研究する大学院生は、ジョージ・メイソン大学に数人いるようだが、ニューヨーク大学には二人しかいない。それゆえアメリカ国内では、今後オーストリア学派が大きなトレンドになるとは限らないだろう。むしろオーストリア学派は、アメリカ以外の土地で新たな展開を見せる可能性のほうが高いかもしれない。もっともどの分野であれ、学問の展開は今後、国際的な交流の中で展開していくことになるのであろう。
私の感想では、オーストリア学派というのは、個々の研究テーマを超えて、学説史や思想や規範理論を含めた、学問上のユニバースをもちたいという人に向いている。例えば「電力の自由化」という研究分野は、一つのパラダイムから成り立つのではなく、さまざまなパラダイムと実証例から成り立っている。特定のパラダイムが支配的になっていない研究分野においては、諸分野にまたがるような研究パラダイムを希求する欲求が生まれる。オーストリア学派はそうした個々の希求をつなげていくような、コミュニケーションの小ユニバースを提供しているのであろう。例えばオーストリア学派の大学院生のセッションでは、電力の自由化と、16世紀における証券取引の自由な創造と、メンガーとランカスターにおける経済人像の比較といったテーマが同時に論じられていた。こうした分野間の議論をつなげていくことに、オーストリア学派の面白さがある。
ところで大会が開催されたタンパという都市は、まったく文化的資源のないところに近代的なビルが整然と立ち並んでいるような、殺伐とした空間であった。おそらくアメリカの典型的な近代都市であろう。オーストリア学派は現在、総じて言えば、こうした無味乾燥としたアメリカの都市空間において、低い文化的資源の中で展開しているように見える。これは例えば、私の出身大学のように、新横浜のような文化的資源の乏しい近代都市において、経済学研究が奨励されるという環境に似ている。アメリカにおける経済学研究の姿勢は、おそらく日本人が経済学を研究する姿勢と大して変わらないのかもしれない。アメリカ人もまた、文化的劣等コンプレックスを昇華するために、現代における学問の発展を担う義務を感じているようだ。ニューヨークやボストンという都市は別として、こうしたアメリカの文化的資源の貧困は、おそらく経済学の研究に大きな意味と意義を与えているように思う。改めて、研究生活の文化的・社会的拘束性について考えさせられることになった。もっとも日本は日本で、オーストリア学派の独自の受容と展開があったのであり、これはまたこれで外国人から見れば、文化的に異様な感じがするのかもしれない。
フロリダのタンパでは、私は滞在するホテルにまったくの缶詰状態で過ごした。リゾートを楽しむどころではなかった。ホテルの近くには、コンビニエンス・ストアさえなく、辺りは人通りのほとんどないオフィス街であった。人々は車で出勤し、パーキング・ビルに車を停めて、そこから最も近いオフィス・ビルに吸い込まれては、吐き出されていくようだった。そうした空間の片隅にあるホテルの中で、今回の学術大会が開かれていた。いったいここは、モダニズムの極地なのだろうか。そしていったい、私はこの学問分野において、誰に対して何を語りうるのだろうか。こうした漠然とした疑問が、大きく圧しかかってきた。